回想 桜紀行 竜安寺
長かった?9連休だったGWも今日まで。
きょう以外は天候に恵まれた、過ごし易いGWだったような気がします。
皐月にはいり、早7日がたちました。
東京から仙台までの、新幹線の車窓の景色が、一変していました。
まわりの山々の木々は新緑が眩しいくらいで、田んぼには、
水が張ってあって、既に田植え済みの場所もありました。
又、新白河から郡山間の山々には、桜が咲いて綺麗でした。
惜しむらくは、きょうの天候が雨模様だったことですね。
久々ながら、回想・京都桜紀行を。
常照寺からは、竜安寺に廻ってみました。
「竜安寺」
宝徳2年(1450)室町幕府官領細川勝元が、徳大寺家の別荘を譲り受けて寺地とし、
妙心寺の義天玄承を開山として創建されたものであり、臨済宗妙心寺派に属し、
大雲山と号した禅苑の名刹。
応仁の乱で焼失して、長享2年(1488)勝元の子政元が再興したが、
寛政9年(1797)火災で方丈・仏殿・開山堂を焼失したため西源院方丈を移築。
方丈の前庭は枯山水の庭として著名。
方丈前→
枯山水の庭は
「石庭」で有名。
石庭左手から→
東西約25m、南北約10m。
三方を築地塀〔油土塀〕で囲み、
境内の植栽を借景とする。
庭内は一木一草も用いず、
地表に白砂を敷き15個の
自然石をはいする。
その姿から「都林泉名勝図会」は
「虎の子渡し」の庭と記し、
配置された15の石が
東から7・5・3で
構成されているので
「七・五・三の庭」ともいわれる。
作庭の年代や作者、
制作の意図などについては
確実な資料が無いため、
各分野の人々により
様々な説があるが、
室町時代末期の作で
特芳禅傑らの優れた
禅僧によって作られた
ものと伝えられる。
石庭右手から→
鏡容池(きょうようち)→
鏡容池。
徳大寺家によって
築かれたもので、
かってはおしどりが
群れ遊んでいたところから
別名おしどり池とも呼ばれた。
周りに種々の花木が植えられ
桜、雪柳、つつじ、藤、池の睡蓮、
秋の紅葉、
冬の雪景色と
四季折々の風情あり。
鏡容池2→
駐車場の枝垂れは
満開も
石庭越しの
枝垂れは
まだだったのが
残念でした。
きょう以外は天候に恵まれた、過ごし易いGWだったような気がします。
皐月にはいり、早7日がたちました。
東京から仙台までの、新幹線の車窓の景色が、一変していました。
まわりの山々の木々は新緑が眩しいくらいで、田んぼには、
水が張ってあって、既に田植え済みの場所もありました。
又、新白河から郡山間の山々には、桜が咲いて綺麗でした。
惜しむらくは、きょうの天候が雨模様だったことですね。
久々ながら、回想・京都桜紀行を。
常照寺からは、竜安寺に廻ってみました。
「竜安寺」
宝徳2年(1450)室町幕府官領細川勝元が、徳大寺家の別荘を譲り受けて寺地とし、
妙心寺の義天玄承を開山として創建されたものであり、臨済宗妙心寺派に属し、
大雲山と号した禅苑の名刹。
応仁の乱で焼失して、長享2年(1488)勝元の子政元が再興したが、
寛政9年(1797)火災で方丈・仏殿・開山堂を焼失したため西源院方丈を移築。
方丈の前庭は枯山水の庭として著名。
方丈前→

枯山水の庭は
「石庭」で有名。
石庭左手から→

東西約25m、南北約10m。
三方を築地塀〔油土塀〕で囲み、
境内の植栽を借景とする。
庭内は一木一草も用いず、
地表に白砂を敷き15個の
自然石をはいする。
その姿から「都林泉名勝図会」は
「虎の子渡し」の庭と記し、
配置された15の石が
東から7・5・3で
構成されているので
「七・五・三の庭」ともいわれる。
作庭の年代や作者、
制作の意図などについては
確実な資料が無いため、
各分野の人々により
様々な説があるが、
室町時代末期の作で
特芳禅傑らの優れた
禅僧によって作られた
ものと伝えられる。
石庭右手から→

鏡容池(きょうようち)→

鏡容池。
徳大寺家によって
築かれたもので、
かってはおしどりが
群れ遊んでいたところから
別名おしどり池とも呼ばれた。
周りに種々の花木が植えられ
桜、雪柳、つつじ、藤、池の睡蓮、
秋の紅葉、
冬の雪景色と
四季折々の風情あり。
鏡容池2→

駐車場の枝垂れは
満開も
石庭越しの
枝垂れは
まだだったのが
残念でした。
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